本懐

この数ヶ月ほど、止まらなくなっていろいろな本を買っている。
思えばここ8年くらい・・・
ていうか大学の途中くらいからずっと、基本的にセイビングマネー人生で、大好きな本を買うことさえすごく控えてきた。生活にかかわるすべての地域の図書館のカードを手に入れ(そういえば横浜市の図書カードは偽名で2枚持っていたっけ)、各館に足しげく通い、大量に借りて積み上げ、延滞し、また借りて、たまにどーーーしても、というものだけ買って大事に大事に読んだ。
そうやって貯めたお金で私は旅をし、専門学校に通い、大学院にも入ったのだけれど、今すこしずつタガがはずれ始め、財布のヒモはゆるみだし、堪忍袋のヲは切れ始め(ある意味ね)、本エンゲル係数が上がりつつあります。
本によって生きる。
本によって活きる。
出会った人々にたくさんの「ものでないもの」をいただき、ここにいる。
それには本の中での出会いも含まれている。

レポートを書きながら、いつか書かなくちゃならない論文のことを考えるのだけれど、このところあらためて思うことがある。
論文を書くというのは、大きな共同作業なんだということ。
いろんな人がそれぞれの分野で、頭と身体でとらえて記したもの。それらを追っているうちに、大きなひとつの作業を皆で分担しているような気持ちになってくる。
あの方はあの部分を担当されている。
あの方はまた別の部分を担当されている。
ある方はそこにまだまだ先があることを示し、
ある方はその先が行き止まりであることを示してくれている。
若い方、年老いた方、もう亡くなられた方、同じ国の方、そうでない方、
その広い広い作業場には遠くに近くにたくさんの方がいて、そこここで笑い声やぴりっとした真剣な声がしている。ざわめいている。
論文を書くということは、広い広いサロンにいるようなことなんだと思う。
少し前までなんとなく孤独を感じたり、「私に」書けるのか?なんてことを考えていたけれど、気持ちが変わってきた。私はぜんぜんひとりじゃない。ここにはたくさんの人がいる。そしてばらばらに見えても、ほんとうはみんなでひとつの大きな流れを作っている共同作業なんだ。
ここにいて、もうすこしその様子がわかってきたら、いずれ私のするべきこともわかってくるはずだ。
サロンのあちこちにいるいろんな人の声に耳を傾けているうちに。
そしてもしかしたらある日、そばを通る誰かに声をかけられるかもしれない。
たくさんの本を抱えて大変そうな人。
「君、暇かね?ちょっと手伝ってくれないか。」
え、は、はい、と思わず立ち上がってしまう。そのときに、もう私の仕事は始まっているのかもしれない。今にも崩れそうになってるその大荷物からいくつか引き受けて、とりあえずその方の作業場までついていく。そして新しい荷物の整理を手伝ううちに、誰かへの届け物を頼まれたり、また他の誰かから何かを預かってくるように頼まれたりする。
「自分が」何かを書かなくちゃいけない気がしていた。「自分が」何かをしなくちゃいけないんだと。
でもちがうのかもしれない。この広いサロンに足を踏み入れたら、もう「自分が」何かをできるなんて恥ずかしくて思えなくなってきた。
ただただ、先行く偉大な人々の話に耳を傾け、その仕事に触れるたびに涙が出そうに感動し、敬意を表し、強きを称え弱きをいたわり、支えられ支えながらその偉大な人たちの後をたどたどしく行くのだ。ただそれだけの果てしない道行きなのだ。
少なくともちいさな私にとっては、研究とはそのようなものなのかもしれないという気がした。
すこし気持ちが楽になった。
本買いの至福の日々の中で。