治水を求むるの心

短期療法について勉強していたら、ここに流れ着いた。

精神の生態学

精神の生態学

つくづく、自分をほめてしまう。
いやー、いい本に出会いました。あなたエライ。(佐野洋子風)
「今まで心の中でもやもやと思ってたことを言語化してくれた」っていう言い方は、あまりに月並みで、どうかと思う。
が、そんな本。
「私もそう思ってたましたぁぁ!」って言ってしまいたくなる。
「今ベイトソン読んでます。むちゃくちゃおもしろいです。」
と師匠に言ってみたところ、
『精神の生態学』と『精神と自然』は若き日の師匠の「座右の書」だったことが判明。
似てると思った。メタ・ローグやら、二重拘束理論やら。さー。
読んでてどきどきするときの感触が、師匠の本ととてもよく似ている。


ベイトソンのような頭がほしい。
もしも彼のような言葉で人に語りかけることができたなら、
(私にそれができるのなら、そのときにはすでにたくさんの人がそのようにして、人々に語りかけているに違いないから)
きっと世界は今と違っているだろう。
きっとその世界は今よりずっとずっと素朴で平和な、人ひとりひとりの顔がよく見える、やさしい世界だろう。


ふと「水路」という言葉が頭に浮かぶ。
この言葉が私に対して持つ意味。それは、また別の本の別の話からやって来る。


中沢新一の『雪片曲線論』は空海と水と治水の話から始まる。

雪片曲線論 (中公文庫)

雪片曲線論 (中公文庫)

水流の荒ぶるエネルギーをうまく治することができれば、それは豊かな恵みの水となる。
その破壊的なまでのエネルギーを容れる力のない脆弱な水路ならば、流れはそのまま暴力となり、その流域に莫大な水害をもたらす。
その水路に必要なのは、固さとしての強さではない。いうなればしなやかさとしての強さだ。
日本において密教を体系化した空海が、かつ書の達人であり、名文家であり、また瀬戸内・四国に数々の灌漑施設を造ってまわった土木技術者であったということは、決してその多才を意味するものではない。それらはむしろただひとつ、流体を固体へと流し込み、そのエネルギーを治する能力に長けていた治水の大家、としての多彩なあらわれだったのだと中沢氏は言う。


どうして今私の頭の中に水路の話が召喚されたのだろう。
それはきっと、私こそがその治水を求めているからだ。
このうねりをあげて変化し続ける精神の轟轟とした水流に、いつも私のちっぽけな思考の身体は決壊してしまう。
停止。散逸。そして振り出しに戻る。そのくり返し。
必要なのは固さではないとわかっている。
けれどもその仕方をまだ私の思考の身体は捉えない。
精神を鍛えるとはどういうことだろう。
精神の筋トレがしたい。


ベイトソンはひとつの水路である。
せめてまずその思考と言葉に
忠実に身体を添わせることからはじめよう。
いつかそのしなやかな思考と言葉の水路が、私の水路にも生かされるように。