お迎えは不動明王

lyrette3982006-05-09

連休中に祖父が亡くなった。
去年「生前葬」をしていたから、今回のお通夜・お葬式(それでも一応やった)は、最後の日々を過ごしたおば−つまり祖父の長女−の家の広くて気持ちのいい部屋で、身内だけのとっても簡素であたたかなものになった。
祖父は僧侶だったので、導師も、祖父の大好きだった年下の(すんごくオーラのある)お坊さんがつとめて下さった。脇導師は祖父のおとうと弟子にあたる年下の親友。
お坊さんまでが身内ってすばらしい。
こんなの初めてだ。
ほんとにそこにいるすべての人が、祖父のことをよく知っており、やんちゃな生きっぷりにすごく困らされ、またそれを大好きだった人たちだった。
よく知っているその人の、眠る白い顔をみつめる全員が、まだまだぜんぜん簡単な美談になんか集約されない、まだどこにも落ち着きどころを持たない思いをかかえたままだった。
少なくとも私はまだまだ絶対、その人の存在を、何かどこかのわかりやすいおさまりのいい、うすっぺらい話になんかしたくない。
ずっとしたくない。

伝説は常に美しく、常に虚しい。愛する人の死を前にして、「あの人は好い人だった」と人に言われたときの、あの憤りは伝説というものの嫌悪に拠っている。あの人はたしかに好い人でもあった。しかし「あの人は好い人だった」と人に言われるとき、あの人はあらゆるものを奪われて、ただの「好い人」になってしまう。それは、愛するものにとって絶えられない。あの人は「好い人」だけの人ではなかった。それ以外のあらゆる人でもあった、と叫びたくなる。憤る。そうだ、その憤りだけが死者を伝説から守り抜く。そして、死者を非存在の透明な虚空から甦らせるのも、またその憤り以外にはないのだ。

これは沢木耕太郎の言葉。
そして

生きることを物語に要約してしまうことに逆らって

これは谷川俊太郎の「夜のラジオ」という詩の最後の一行。


そう言えば!
このところずっと「如来さんのお迎え」を心待ちにしていたおじいちゃんごめん。
あのね、導師様のお話では、おじいちゃんが大好きな如来さんに会えるのはこれから3年くらい後らしいです。笑
お迎えはこわもての不動明王だったそうですね。(亡くなって始めの七日にやってくるのは不動明王なんだって。)
たいそうびっくりしたでしょう。

無名

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