もう謝りたくても謝れない人もいるけれど

 ただ僕の個人的な経験から、ひとつだけ偉そうなことを言わせていただくなら、人生においていちばん深く心の傷として残るのは、多くの場合、自分が誰かに傷つけられたことではなく、自分が誰かを傷つけたことですね。そのような思いは、ある場合には亡霊のように、死ぬまで重くついてまわります。
 だから誰かに傷つけられたときには、「傷つけられたのが自分でよかったんだ」と思うといいと思います。そんなの、なかなか思えないですけどね。それでも。

最近ずっと、傷つくこと、について考えている。
はっきり言うと、最近ちょっと(というかけっこうちゃんと)傷ついたできごとがあって、心が痛むやらどうしたらいいかわからないやらで、ひさしぶりにじたばたうろたえてしまった。
その日々の中で村上春樹氏の上記の言葉は、心にぐっときた。
そうだ、よかった。傷ついたのが自分でよかった、と思った。
そしてこのことは、けっこうその後の自分の心の展開に、大切なヒントをくれたと思う。

今回傷ついたとき、実は何が起こったのか、自分にもよくわからなかった。
何が起こったのかよくわからなかったので、はじめは、あれ?私は怒っているのかな?と思った。
はっきり言うとね、人からちょっと(というかけっこうきっちり)傷つくことを言われたのです。
???あれ?なんだろこれ???と思いながら、
それなりの敬意で答えを返しはして、その場は終わったんだけど、
頭に浮かんでくるのは、吉本ばなな「キッチン」のみかげの言葉だった。

「それ以上何かおっしゃりたいのでしたら」
 本当は自宅に電話を、と言おうと思ったのだが、私はそのかわりに、
「泣いて包丁で刺したりしますが、よろしいですか。」
と言ってしまった。われながら情けない発言だと思った。

でもそのあとゆっくり考えたり、じたばたしたり、うなってみたり、距離をとってみたりしていたらだんだん、私は怒ってるのではなくて、その人の言葉に傷ついているのだとわかった。鈍いですねえ。笑

上記「キッチン」のすこし前の場面。

彼女の人間洞察はかなり自分の良い方向に傾いていたけれど、その言葉の暴力は私の痛いところを正確についていたので、私の心はたくさん傷ついた。

そうか、私は傷ついたのか。
そんなことがぼんやりわかってきたりしながら、上記の村上氏の「質問の答え集」を読んだり、いろんな人に相談してみたりして数週間を過ごした。少しずつ段階を経て心がほどけてくる感じはあるのだけど、でもなんだかずっとそのことが心から離れなかった。割と似たようなことが過去に何度かあった。そのたびにそれなりに解決を見てきたように思っていたのだけれど、いつも同じところで私は立ち止まっている気がする。


そして、つい昨日、また発見をした。
私が何に傷ついたのか。何でここまでひきずることになったのか。私がひきずられていたのは、いったい何だったのか。
たぶんそれは、「自分自身の暴力性」だった。
それから自分自身が人を傷つけたことに深く傷ついた過去の記憶だった。


その人の言葉によって受けた傷と、
そんなその人に私がしてしまうかもしれない(あるいはもうすでにしてしまったかもしれない)ひどいことと、
私がかつてふるってきてしまった(あるいはふるってきてしまったと思っている)暴力性と、
その自らの暴力性に気づいたときに自分自身に深く刻まれた、与えた傷を知って受けた傷。
傷つけるとわかっていてしたこと、その残虐性と、傷つけるとは知らずにしたこと、その無神経さ。
(そして後者の方がずっとずっとこたえた。)



そういうものが、いっしょくたになって、私を揺さぶっていたのだと思った。古い生傷。葛藤と抑制。


でもやっぱり今回、傷ついたのが私で、ほんとうによかったと思った。どうか私だけでありますように。
どうかその人を傷つけていませんように。
そしてこれからもどうか傷つけてしまうことがありませんように。
気づいてよかった。


このことがわかったら、まだ傷は痛むけど、ずいぶん元気になった。
それが「私の」傷ならば、私は私の傷が癒えるのを、ゆっくり待てばいい。私は私の回復力を、信じることができる。
私には友達がいる。あたたかな、大好きな人がいる。
ビールもあるし、本もある。やっていける。
そのことに感謝もできる。


I先生(男性)と、I先生(女性)には、お話を聞いていただき、たいへんお世話になりました。
この場を借りて(?)、心よりお礼を言いたいです。
ありがとうございました。

キッチン

キッチン