ニーチとナイアリズムとアホリズム

lyrette3982006-07-02


ニーチェの発表準備が一段落したので、散歩に出かける。
ちょっと、いらいらしながらの発表準備だった。
だってさ、だってさ、なんつーか
どう善意に読んでも
「宗教も知らねーばかなお前らにはわかんねーだろうけどよ」
っていう結論に読めちゃう論文なんだもんー。
それで、
あんだとばかにすんなよこのやろっ、むかむか。
とけっこうめずらしく、いじわる心満載で「こいつをいかにして刻んだろーか」などとギリギリ歯を軋ませながら、カタカタとレジュメを作っていたのでした。
でも、準備を終えてみたら、ねえ。こーやっぱり、「いじわるしよう」ってたくらみながら何かをするのは、身に合わないんだなあと思ったりした。ひどくつかれた。
日がかげりはじめる5時くらいにぷらりと外に出て、電器屋さんでプリンタのインクを買う。
電器屋さんを出ると夕日が不思議な色で、国道を行く車たちを照らしてた。
ちっちゃい浮き草がみっしり繁殖して緑に染まった、まだ若い稲の田んぼから、かえるの声がした。
夏の夕暮れなんかを一緒に歩きたい人のことを思った。

そのあと、おとなりにあるブックオフへ。
本のたくさんある場所は私のニルヴァーナだから、ブックオフに入ってから自分が何をしていたのかはほとんど覚えてない。
って言ってももちろん本を見る以外にそこですることはないはずなんだけどね。

There is nothing to do at the bookstore but only seeing books though.


雑誌の棚から文庫の棚へ。105円の小径から非105円の外環へ。
店内は広いけど外が見える窓もなくて、立ち読みなんかをして、ついでに気になってたまんがもちょっとめくって泣いたりなんかもして、はっと気づいたら、9時前だった。恐るべし。
なんだっけ。こういう昔話なかった?はっと気づいたらずいぶん時間が経ってましたってやつ。ヘンデルとグレーテルのおかしの家だったか?はてさて浦島太郎の龍宮城だったか。
のんびり厳選した本4冊をぶら下げてすっかり日の落ちた道を帰る。
まだ夏の始まりで、昼間にたっぷり降った雨ですずしい風が国道から田んぼを渡る、そんな中を歩く。
時間も忘れ、今日が何曜日なのかも忘れ、何をしにここにいるのかも、ここがどこで自分が誰なのかも、わすれた。すっかりわすれてゆっくりとあるいた。
いろんなしゅるいのかえるのこえ。むしのこえ。
くるまのおと。いえのあかり。
わたしは、かんがえた。
わたしは、何をしようとしてるんだろう。
何ができるだろう。
何がしたいだろう。
この、こうして突然にふってくるような時間のない時間から、
何かを受け取って、何かをしっかりと充たされて。
それはやっぱり、誰かに対する「いじわる」じゃないはずだ。
違うもの。それとはぜんぜんちがうものだ。


夏休み前にいくつか書かなきゃいけないレポートのひとつを、ニーチェにしてみようかなと思いつく。私の中のニーチェ問題は、「ていねいな切り離し、とはいかにして可能か」なのだわ。
ニーチェのしたキリスト教否定。
最近考えていたアドラー心理学についてと、何かがつながるような気がする。
でもその「ていねいな切り離し」が、その技術を鍛錬することが、時代のあらゆる問題につながっていく気がしている。
そこで必須なのが、「敬意と節度」なのだと思います。

It needs me of "THE RESPECT and THE DECENCY" at that time.


いい発表にしよう。やさしい発表に。


ニーチェは Nietzsche ニーチュ
ニヒリズムは nihilism ナイアリズム

って発音するの知ってた?
そして、ニーチェが多用したのが、「アフォリズム」(箴言・格言)の語法。でもちょっと「アホリズム」のほうがわたくしの身には相応な気がいたします。


おうちに着いて、置いて出た携帯を見たら、親友のひとりからメールが届いていた。
「イ〜イ色の夕日が出てるので、送りたくなった。見られるかなあ。」
という言葉とともに上の写真。
愛ですねえ。ありがとう、友よー。