幸せだから、満たされない。

今東京。足立区の花火大会目当てに帰ってきた。「帰ってきた」なのかなあやっぱり。
兵庫に越して5ヶ月ちかくになるけれど。
京都でたっぷり遊んで、お友達に見送られながら高速バスに乗った。
眠れなくてバスの中でいろいろ考える。
そして思い当たった。
「幸せだから、満たされない」ことに。


いつのころからか、ずっと、「普通に」生きていることに罪悪感があった。
言い訳かなあ。
でもとにかく。


大学時代は長い休みごとに旅をした。(高校時代に「深夜特急」を読んじゃったからね。)
アジアにはよく行った。タイ、カンボジアインドネシア、インド、ネパール・・・
そして、そのころからだと思う。お金を使うことがうまくできなくなった。
私の行った国々では、子供たちが一生懸命観光客に寄って行って、必死で稼いでいた。
多くの大人たちもそうだった。当時20歳そこそこの私に向かって、必死にものを、サービスを、売った。
こうして書いていると目の裏にたくさんの映像が浮かんでくる。でもどんな会話をしたかは、もうはっきりとは思い出せない。
でも、とにかく、私は「持っている人」だった。
そして彼らは「持っていない人」だった。 
「だって君は持ってるじゃないか。ぼくたちは、ほんとうに、持っていないんだ。」
誰かが言っていた。


私は貧乏な学生で、お金ないよ、って言いながら、よく彼らのそばに腰掛けて話をした。
本当に、贅沢をするお金はなかった。高いものを買うお金はなかった。
でも、私はそこにいた。
ぱらぱらと適当にバイトして、航空券買って、パスポート持って、飛行機乗って、そこにいた。
私がそうやって適当に稼いだ一日分が、彼らの給料一か月分を超えることも多かった。
そうやって、彼らの国に行って、彼らの隣に座ることができる、そういう「お金ないよ」だった。
なんでだかわからない。
私がなぜ日本に生まれたのか。なぜ今生まれたのか。
なぜ食べられることが「普通」で、勉強できることが「普通」で、そんな旅が「普通」なのか。
ぜんぜんわからなかった。
ただの偶然でしかないと思った。
逆でもおかしくない。ぜんぜんおかしくない。
むしろ、そこにいる人たちは、もうひとりの私なのかもしれなかった。
どうしてこんなに私は恵まれているんだろう?


それから、お金がよくわからなくなった。
日本に帰っても、財布の中の小銭も、メニューの数字も、自分の持つ「Yen」がことごとく、子供たちの命を救うワクチンの数に換算された。
自販機に落とされようとするコインが、子供たちが家族に持って帰る生活のための稼ぎを奪うもののように思えた。


うーーーーん。
青いこと書いてるな。
でもあれから、ずっと、青い。私は、青い青いままだ。


ずっと、「満たされない」気持ちがある。
何をしていても「満たされない」気持ちがどこかにある。
贅沢してないし、「国境なき医師団」に寄付もするし、それなりに一生懸命生きているし、幸せなのにな、と思っていたのだけれど、高速バスの中で、なぜだかこのタイミングで、はっと気づいた。
「幸せだから、満たされないんだ。」
自分が幸せであればあるほど、この罪悪感は消えることがない。
この不条理な偶然に、感謝しても感謝しても。


きっとこの罪悪感は一生消えることはないだろうと思う。
でもそのことに気づいたら、何かこれからの行動は、少し変わってくるような気がした。