孤独について

東京では、プールに行って、海に行って、焼けた。
背中がかゆい。
花火大会には2回行ったよ。
恒例の足立区花火大会と、鎌倉由比ガ浜の花火大会。
足立区のはクラシックも映画音楽もじゃんじゃんかかって壮大だった。
鎌倉のはこじんまりしてたけど、キュートでポップな花火が多かった。コーディネーター(ていうのか?)のセンスが感じられた。


んなかんじで20日間ほど東京(と近郊)にいて、今日、関西に戻った。

夏休みは勉強に精を出すべし、と思っており、1日1冊読む!
とか意気込んでいたのだけれど、案の定、そんなには読めてない。
2日に1冊も読めてない。とほほ・えへへ。


それはさておき、今読んでいる本はこれ。

孤独―自己への回帰

孤独―自己への回帰

おもしろい。これで後期の発表を一本しようと思っている。
「孤独」の力、独りでいられる力。についての本。
このところずっと、陰陽両極的なもの、相反するものを含み込んでいるものに惹かれている。ストーもこの本の中で、「守られた」孤独、「満たされた」孤独といったような、すこしねじれた言葉遣いで、私たちの「孤独」の枠組みを壊してくれるような孤独のありよう、効用について述べている。

一人の人間が、自分は拒絶されないし、批判もされないし、他人に比べて劣っていると予測されないということを保証されて、彼自身の最も深いところにある感情に触れ、表現するように励まされたとき、心のなかである種の再整理と選択が行われ、平安を得ることになる。それは真実の泉の深みに本当に到達できたという感覚である。治療に役立つこの過程は、分析家が適切に安全な環境を提供することによって促進されるが、分析家の解釈に必ずしも依存しているわけではない。

現代は、人々が孤独な時代―――って言われるところがあるけれど、この本を読んでいたら、実は逆で、私たちはしかるべき孤独を十分に与えられていないのではないかという気がしてきた。常に私たちは何かに把握され、管理され、ものごとの明示を求められ、秘することを許されない。
そしてさらされた自己は即座にジャッジされ、ラベル付けをされて振り分けられ、場合によっては激しく糾弾される。
人間はもともと、その秘された部分で自らを深めてきたのに、いつもぴかぴかあかるいところにばかりさらされて、それが陰の爆発を生むのかもしれない。
ニート・引きこもりも個室・隠れ家志向も、オタク・萌え流行りも、なんかあらゆる現代の徴候が、この豊かな「孤独」を希求する本能的な動きのように思えてきた。

新訳も出ているみたい。
私が読んでいるのは図書館で借りた旧版だけど、あまりに気になる箇所ばかりなので、カンネンして、近々買うよ。

孤独―新訳

孤独―新訳