そしてまた、東京。孤独について。

心理学関係の勉強会のため、これから夜行バスに乗って東京へ。
なんだか落ち着かない気持ち。なんでだろう。


言っていたとおり↓を買う。(初アマゾン)

孤独―新訳

孤独―新訳

1ページ1ページ、読むごとにいろいろなことを考える。考えがどんどん枝分かれして進む。激しく私をインスパイアしてくれる、いい本だ。
小さな頃から感じていた、「宇宙」のこと。
私のあたまの中に広がる「宇宙」と「自分」との「つながり」。あるいは「かさなり」。
その圧倒的な感覚と、「日常」とのずれ。
誰もがこういう永遠みたいな瞬間を持っているんだと、大学のころまで思い込んでいた。
なのにほとんど誰ともそれが共通の話題にならないことを、ずっと不思議に思っていた。
その「宇宙」との時間は、具体的にどんな時間だったのだろうと考えてみると、それはふとしたときにやってくる確保された「孤独」の時間だったように思う。授業中に考えごとをしていて。本から目をはなして気づいたら時間が経っていたとき。部屋でひとりでぼんやりしていたとき。手紙を書いているとき。
物理的に一人であるには限らないけれど、そこにぽっかりと自分独りの時間と空間が確保されたようなときだった。いや、逆かもしれない。存在をその時空が凌駕するとき、私はいつ・どこにいても、それを至福の孤独と感じていたのかもしれない。
そうだっだ。
その時空はすなわち「至福」だった。
誰ともわかちあうことができないのに、すべてのものに自分が溶け入っているような、至福の孤独だった。すべてにつながる孤独だった。豊かな孤独だった。


その「至福」を追いかけて、ずっと進んできた気がする。
そして今もどこかで、その至福とつながっている気がする。
時々自分の輪郭が、消えてなくなるような気がするときがあるけれど、それはあるいは、そんな至福の孤独を知ってしまった子どもの、当然の宿命なのかもしれない、と今思った。