そしてまた、東京。孤独について。

心理学関係の勉強会のため、これから夜行バスに乗って東京へ。
なんだか落ち着かない気持ち。なんでだろう。


言っていたとおり↓を買う。(初アマゾン)

孤独―新訳

孤独―新訳

1ページ1ページ、読むごとにいろいろなことを考える。考えがどんどん枝分かれして進む。激しく私をインスパイアしてくれる、いい本だ。
小さな頃から感じていた、「宇宙」のこと。
私のあたまの中に広がる「宇宙」と「自分」との「つながり」。あるいは「かさなり」。
その圧倒的な感覚と、「日常」とのずれ。
誰もがこういう永遠みたいな瞬間を持っているんだと、大学のころまで思い込んでいた。
なのにほとんど誰ともそれが共通の話題にならないことを、ずっと不思議に思っていた。
その「宇宙」との時間は、具体的にどんな時間だったのだろうと考えてみると、それはふとしたときにやってくる確保された「孤独」の時間だったように思う。授業中に考えごとをしていて。本から目をはなして気づいたら時間が経っていたとき。部屋でひとりでぼんやりしていたとき。手紙を書いているとき。
物理的に一人であるには限らないけれど、そこにぽっかりと自分独りの時間と空間が確保されたようなときだった。いや、逆かもしれない。存在をその時空が凌駕するとき、私はいつ・どこにいても、それを至福の孤独と感じていたのかもしれない。
そうだっだ。
その時空はすなわち「至福」だった。
誰ともわかちあうことができないのに、すべてのものに自分が溶け入っているような、至福の孤独だった。すべてにつながる孤独だった。豊かな孤独だった。


その「至福」を追いかけて、ずっと進んできた気がする。
そして今もどこかで、その至福とつながっている気がする。
時々自分の輪郭が、消えてなくなるような気がするときがあるけれど、それはあるいは、そんな至福の孤独を知ってしまった子どもの、当然の宿命なのかもしれない、と今思った。

孤独について

東京では、プールに行って、海に行って、焼けた。
背中がかゆい。
花火大会には2回行ったよ。
恒例の足立区花火大会と、鎌倉由比ガ浜の花火大会。
足立区のはクラシックも映画音楽もじゃんじゃんかかって壮大だった。
鎌倉のはこじんまりしてたけど、キュートでポップな花火が多かった。コーディネーター(ていうのか?)のセンスが感じられた。


んなかんじで20日間ほど東京(と近郊)にいて、今日、関西に戻った。

夏休みは勉強に精を出すべし、と思っており、1日1冊読む!
とか意気込んでいたのだけれど、案の定、そんなには読めてない。
2日に1冊も読めてない。とほほ・えへへ。


それはさておき、今読んでいる本はこれ。

孤独―自己への回帰

孤独―自己への回帰

おもしろい。これで後期の発表を一本しようと思っている。
「孤独」の力、独りでいられる力。についての本。
このところずっと、陰陽両極的なもの、相反するものを含み込んでいるものに惹かれている。ストーもこの本の中で、「守られた」孤独、「満たされた」孤独といったような、すこしねじれた言葉遣いで、私たちの「孤独」の枠組みを壊してくれるような孤独のありよう、効用について述べている。

一人の人間が、自分は拒絶されないし、批判もされないし、他人に比べて劣っていると予測されないということを保証されて、彼自身の最も深いところにある感情に触れ、表現するように励まされたとき、心のなかである種の再整理と選択が行われ、平安を得ることになる。それは真実の泉の深みに本当に到達できたという感覚である。治療に役立つこの過程は、分析家が適切に安全な環境を提供することによって促進されるが、分析家の解釈に必ずしも依存しているわけではない。

現代は、人々が孤独な時代―――って言われるところがあるけれど、この本を読んでいたら、実は逆で、私たちはしかるべき孤独を十分に与えられていないのではないかという気がしてきた。常に私たちは何かに把握され、管理され、ものごとの明示を求められ、秘することを許されない。
そしてさらされた自己は即座にジャッジされ、ラベル付けをされて振り分けられ、場合によっては激しく糾弾される。
人間はもともと、その秘された部分で自らを深めてきたのに、いつもぴかぴかあかるいところにばかりさらされて、それが陰の爆発を生むのかもしれない。
ニート・引きこもりも個室・隠れ家志向も、オタク・萌え流行りも、なんかあらゆる現代の徴候が、この豊かな「孤独」を希求する本能的な動きのように思えてきた。

新訳も出ているみたい。
私が読んでいるのは図書館で借りた旧版だけど、あまりに気になる箇所ばかりなので、カンネンして、近々買うよ。

孤独―新訳

孤独―新訳

幸せだから、満たされない。

今東京。足立区の花火大会目当てに帰ってきた。「帰ってきた」なのかなあやっぱり。
兵庫に越して5ヶ月ちかくになるけれど。
京都でたっぷり遊んで、お友達に見送られながら高速バスに乗った。
眠れなくてバスの中でいろいろ考える。
そして思い当たった。
「幸せだから、満たされない」ことに。


いつのころからか、ずっと、「普通に」生きていることに罪悪感があった。
言い訳かなあ。
でもとにかく。


大学時代は長い休みごとに旅をした。(高校時代に「深夜特急」を読んじゃったからね。)
アジアにはよく行った。タイ、カンボジアインドネシア、インド、ネパール・・・
そして、そのころからだと思う。お金を使うことがうまくできなくなった。
私の行った国々では、子供たちが一生懸命観光客に寄って行って、必死で稼いでいた。
多くの大人たちもそうだった。当時20歳そこそこの私に向かって、必死にものを、サービスを、売った。
こうして書いていると目の裏にたくさんの映像が浮かんでくる。でもどんな会話をしたかは、もうはっきりとは思い出せない。
でも、とにかく、私は「持っている人」だった。
そして彼らは「持っていない人」だった。 
「だって君は持ってるじゃないか。ぼくたちは、ほんとうに、持っていないんだ。」
誰かが言っていた。


私は貧乏な学生で、お金ないよ、って言いながら、よく彼らのそばに腰掛けて話をした。
本当に、贅沢をするお金はなかった。高いものを買うお金はなかった。
でも、私はそこにいた。
ぱらぱらと適当にバイトして、航空券買って、パスポート持って、飛行機乗って、そこにいた。
私がそうやって適当に稼いだ一日分が、彼らの給料一か月分を超えることも多かった。
そうやって、彼らの国に行って、彼らの隣に座ることができる、そういう「お金ないよ」だった。
なんでだかわからない。
私がなぜ日本に生まれたのか。なぜ今生まれたのか。
なぜ食べられることが「普通」で、勉強できることが「普通」で、そんな旅が「普通」なのか。
ぜんぜんわからなかった。
ただの偶然でしかないと思った。
逆でもおかしくない。ぜんぜんおかしくない。
むしろ、そこにいる人たちは、もうひとりの私なのかもしれなかった。
どうしてこんなに私は恵まれているんだろう?


それから、お金がよくわからなくなった。
日本に帰っても、財布の中の小銭も、メニューの数字も、自分の持つ「Yen」がことごとく、子供たちの命を救うワクチンの数に換算された。
自販機に落とされようとするコインが、子供たちが家族に持って帰る生活のための稼ぎを奪うもののように思えた。


うーーーーん。
青いこと書いてるな。
でもあれから、ずっと、青い。私は、青い青いままだ。


ずっと、「満たされない」気持ちがある。
何をしていても「満たされない」気持ちがどこかにある。
贅沢してないし、「国境なき医師団」に寄付もするし、それなりに一生懸命生きているし、幸せなのにな、と思っていたのだけれど、高速バスの中で、なぜだかこのタイミングで、はっと気づいた。
「幸せだから、満たされないんだ。」
自分が幸せであればあるほど、この罪悪感は消えることがない。
この不条理な偶然に、感謝しても感謝しても。


きっとこの罪悪感は一生消えることはないだろうと思う。
でもそのことに気づいたら、何かこれからの行動は、少し変わってくるような気がした。

僕のまわりでこそ都市は激しく崩れさるべきだったのだ。

 一定の期間が経つと、(あるいはふと思いたって)読み直している何冊かの本のうちに、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』がある。
 そして毎回勇気づけられる。
 大丈夫、やっていける、と思う。

彼は地面を踏み、優雅に腕をまわした。ひとつの動きが次の動きを呼び、さらに次の動きへと自律的につながっていた。身体がいくつもの図形を描いた。そこにはパターンがあり、ヴァリエーションがあり、即興性があった。リズムの裏側にリズムがあり、リズムの間に見えないリズムがあった。彼は要所要所で、それらの複雑な絡み合いを見渡すことができた。様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。彼はやがてその森を通り抜けていくだろう。でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ。

だってそれは僕自身の中にある森なのだ。
僕自身が抱えている獣なのだ。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る

当たり前になるということ

金城一紀の「レヴォリューションNo.3」を読む。

レヴォリューション No.3

レヴォリューション No.3

おもしろいねえ。
「なんかすっきりする本貸してください。」とI田先生から借りたもの。

「遠くに行っちゃった人間はズルいね。残ったほうの人間に自分が悪いみたいに思わせる。でもね、踏みとどまってファイトする人間が本当のヒーローになれるのよ。人間、生きててナンボよ。」
僕は頷いて、サンキュー、と言った。

落ちこぼれ(?)高校生たちが繰り広げるプチ冒険譚なのだけど、ここにはあらゆるものが、普通に存在している。高校生、大人、同性愛者、在日外国人、片親の子、日雇い労働者、ハーフ、病人、看病するもの、敵、味方、死、健康、病気、愛、いさかい、笑い、涙、とにかく、いろいろ。そしてそれがすべて普通に。
ああ、なんかこんなの初めてだなあ。と思う。
この普通さが、自分にとってはうれしい普通なんだよなあと思いながら、これを「新鮮に」「うれしく」思うことに立ち止まりもする。
これを喜んでいるということは、これがまだ「普通」ではない時代だからだ。


期が熟すのを待って置いてあった「陰陽師」12巻、13巻を読む。号泣。
いやあ、泣いちゃうねえ。
今読んでよかったな。大事にとっておいてよかったな。
今はまだぜんぜん、感想も何も言えない。
13巻のあとがきにこうあった。

調和はすべてに行き渡ると、調和の意識すら消えてなくなる。それは隠れたる神の本質。

調和に気づかないほどの調和の実現を。
そのとき同時に思う。
気づかれていない調和に、感謝を。
今だってきっと私たちの気づかない、調和や、幸福や、恩恵のなかに、もうすでに私たちはいたりすると思うから。

陰陽師 (13) (Jets comics)

陰陽師 (13) (Jets comics)

ニーチとナイアリズムとアホリズム

lyrette3982006-07-02


ニーチェの発表準備が一段落したので、散歩に出かける。
ちょっと、いらいらしながらの発表準備だった。
だってさ、だってさ、なんつーか
どう善意に読んでも
「宗教も知らねーばかなお前らにはわかんねーだろうけどよ」
っていう結論に読めちゃう論文なんだもんー。
それで、
あんだとばかにすんなよこのやろっ、むかむか。
とけっこうめずらしく、いじわる心満載で「こいつをいかにして刻んだろーか」などとギリギリ歯を軋ませながら、カタカタとレジュメを作っていたのでした。
でも、準備を終えてみたら、ねえ。こーやっぱり、「いじわるしよう」ってたくらみながら何かをするのは、身に合わないんだなあと思ったりした。ひどくつかれた。
日がかげりはじめる5時くらいにぷらりと外に出て、電器屋さんでプリンタのインクを買う。
電器屋さんを出ると夕日が不思議な色で、国道を行く車たちを照らしてた。
ちっちゃい浮き草がみっしり繁殖して緑に染まった、まだ若い稲の田んぼから、かえるの声がした。
夏の夕暮れなんかを一緒に歩きたい人のことを思った。

そのあと、おとなりにあるブックオフへ。
本のたくさんある場所は私のニルヴァーナだから、ブックオフに入ってから自分が何をしていたのかはほとんど覚えてない。
って言ってももちろん本を見る以外にそこですることはないはずなんだけどね。

There is nothing to do at the bookstore but only seeing books though.


雑誌の棚から文庫の棚へ。105円の小径から非105円の外環へ。
店内は広いけど外が見える窓もなくて、立ち読みなんかをして、ついでに気になってたまんがもちょっとめくって泣いたりなんかもして、はっと気づいたら、9時前だった。恐るべし。
なんだっけ。こういう昔話なかった?はっと気づいたらずいぶん時間が経ってましたってやつ。ヘンデルとグレーテルのおかしの家だったか?はてさて浦島太郎の龍宮城だったか。
のんびり厳選した本4冊をぶら下げてすっかり日の落ちた道を帰る。
まだ夏の始まりで、昼間にたっぷり降った雨ですずしい風が国道から田んぼを渡る、そんな中を歩く。
時間も忘れ、今日が何曜日なのかも忘れ、何をしにここにいるのかも、ここがどこで自分が誰なのかも、わすれた。すっかりわすれてゆっくりとあるいた。
いろんなしゅるいのかえるのこえ。むしのこえ。
くるまのおと。いえのあかり。
わたしは、かんがえた。
わたしは、何をしようとしてるんだろう。
何ができるだろう。
何がしたいだろう。
この、こうして突然にふってくるような時間のない時間から、
何かを受け取って、何かをしっかりと充たされて。
それはやっぱり、誰かに対する「いじわる」じゃないはずだ。
違うもの。それとはぜんぜんちがうものだ。


夏休み前にいくつか書かなきゃいけないレポートのひとつを、ニーチェにしてみようかなと思いつく。私の中のニーチェ問題は、「ていねいな切り離し、とはいかにして可能か」なのだわ。
ニーチェのしたキリスト教否定。
最近考えていたアドラー心理学についてと、何かがつながるような気がする。
でもその「ていねいな切り離し」が、その技術を鍛錬することが、時代のあらゆる問題につながっていく気がしている。
そこで必須なのが、「敬意と節度」なのだと思います。

It needs me of "THE RESPECT and THE DECENCY" at that time.


いい発表にしよう。やさしい発表に。


ニーチェは Nietzsche ニーチュ
ニヒリズムは nihilism ナイアリズム

って発音するの知ってた?
そして、ニーチェが多用したのが、「アフォリズム」(箴言・格言)の語法。でもちょっと「アホリズム」のほうがわたくしの身には相応な気がいたします。


おうちに着いて、置いて出た携帯を見たら、親友のひとりからメールが届いていた。
「イ〜イ色の夕日が出てるので、送りたくなった。見られるかなあ。」
という言葉とともに上の写真。
愛ですねえ。ありがとう、友よー。

まだしなくちゃいけないことはたくさんあるけれど

毎週毎週の発表準備に追われている。
先週は消費社会を生きる子どもたちについて。
今週は東洋医学現代社会について。
来週はニーチェ
読みたい本も読まなきゃな本もたくさんあるのにー
なかなかどうして。
自分の研究もなかなか進まず。
でも・・・
今は、これが必要なこと。毎日毎日、たくさんのことを、いろんな人から教えてもらっている。たくさんのものをもらって、どんどんどんどん運ばれていく。
そのことに本当に本当に、感謝しています。

あなたが・・・私に世界を見せてくれる。
こんな幸せに包まれたことはなかった。
あなたは贈り物。純粋さそのもの。

あたためられて、いつもなぜだかこんな風にしてすごく満たされていて、
私は、自分の運命に、人生に、天に、感謝して、感謝して感謝して、
そして自分の宿命を知る。


望みのままに。
どうか何かするべきことがあるならば、滞りなく、私の身体が、使われますように。

と、今日もまた思ったのでした。

あなたが私の世界になる。
私はこれからもずっと幸せであるでしょう。
あなたは贈り物。純粋さそのもの。

私の考えていることは、
もはや自分が考えてることとは思わない。
でも新しく思考を開きながら、静やかに進みながら、
そこをかつて行った先人たちを感じ、心を震わせながら、
また静かに静かに進んでいく。
私は見てみたい。
この思考の後について
この思考がどこに行こうとしているのか。
どこに運ばれようとしているのか。
そこはきっとそんなにひどいところじゃない。
私の直観は、いつもそんなにわるくないよ。